徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松

ゆかりの地めぐり

甲府市

2023.03.29

山梨県甲府市をご紹介します。
甲府市は、武田信虎・信玄・勝頼や徳川家康公ゆかりの地です。

武田氏滅亡、本能寺の変の後、家康公が甲斐国を支配し、甲府はその拠点となりました。家康公は多くの武田家旧臣を自らの家臣団に組み入れたほか、側近平岩親吉を甲府に配し、甲州金・甲州枡など武田氏の遺制を継承する政策を進めたと伝えられます。

ぜひ、甲府市観光協会ホームページとあわせてご覧ください。


甲府市観光協会URL https://kofu-tourism.com/feature/ieyasu/1

南(中道・上九一色エリア>

【中道往還】

甲斐と駿河を最短距離で結ぶ古道で、戦国期には特に軍事的道路として利用されました。武田氏滅亡後は甲斐から帰国する織田信長が、また、本能寺の変後は家康公が甲斐国経略に、この往還を使用しました。

 

【吉祥寺】

天正10年(1582)、家康公が駿河から入国した際、休息したと伝えられます。

【右左口宿】

中道往還の宿場の一つで、天正10年、武田氏を滅ぼした織田信長が帰国する際に宿泊しました。信長往来のために、家康公が整備し、今もその当時の地割りなどが残っています。
本能寺の変後、甲斐に入国した家康公は右左口宿に1週間滞在しました。敬泉寺や東照神君御殿場跡など、宿場のあちらこちらに家康公ゆかりの地が存在します。
また、家康公は入国に協力した右左口の人々に朱印状を与えました。朱印状が与えられたことを記念して右左口宿では「御朱印祭り」を行い、人形浄瑠璃が上演され、その人形や衣装などが伝えられています。朱印状や朱印状を納めた葵の御紋が施された石櫃とともに地元・右左口宿に建てられた宝蔵倉に長年保管されていましたが、現在は山梨県立博物館に寄託されています。

【諏訪神社】

天正10年、入国した家康公が立ち寄り、神社の祭礼にあたり、矢を放ち、神社からその矢が届いた範囲の土地を永代寄付したという言い伝えがあります。家康公が放った矢が刺さった場所には「矢立」という地名が付けられました。神社に立ち寄った家康公に献上した水を汲んだ井戸が現在も個人宅に残されています。水の美味しさに感動した家康公が、そのお宅の主に水にまつわる姓(名字)を与えたと伝えられます。

【東照神君見張場】

家康公が中道往還を通る時の見張所と伝わる場所があり、石碑が建てられています。

【御殿滝】

滝戸山を流れる滝戸川にあり、家康公が立ち寄ったことがその名の由来と伝えられます。

【龍華院】

天正10年、家康公が宿陣したといわれています。

【勝山城跡】

中道往還の要衝にあり、戦国時代、武田信縄・信虎と対立した油川氏の居城だったと伝えられます。
天正10年、家康公と小田原の北条氏が対峙した際には、家康公が修築し、服部半蔵に守らせたといわれています。

甲府駅周辺・北エリア

【甲府城跡】(舞鶴城公園・甲府市歴史公園)

甲斐経略に向け、家康公は甲斐国統治の拠点を躑躅が崎から一条小山(現在の舞鶴城公園)に移すことを計画したとされますが、豊臣秀吉によって関東に移封されたため、秀吉の家臣が甲府城を完成させました。甲府城は、関東の家康公を包囲・牽制する城の一つとして機能しました。


【尊躰寺】(天尊躰寺)

武田信虎が創建しました。寺名は、信虎の長子で、7歳で死去した竹松(信玄の4歳上の異母兄)の戒名(天誉尊躰童子)に由来します。
本尊の阿弥陀三尊像は、蘭渓道隆によって古代中国(唐)から日本にもたらされ、石清水八幡宮(京都府八幡市)を経て、武田家に伝わったといわれ、信虎が難病の際には、この尊像の霊験によって全快したと伝わります。どの角度から崇めても真正面に拝顔でき、「真向の阿弥陀三尊」と称されています。
天正10年、織田信長が甲斐に入国した際、家康公は当寺に仮御殿を建て本陣としました。また、甲斐国をめぐり徳川氏と北条氏が対峙した際も家康公は数回にわたり宿陣しました。家康公が当寺に宿営したのは、本尊を帰依していたからだといわれています。
甲府城築城に伴い、寺は現在地に移転し、跡地には石碑が建てられています。
移転後、現在の天尊躰寺境内には、大久保長安の墓と伝えられる無縫塔があります。長安は、武田家に仕え、武田氏滅亡後は家康公のもと、金山奉行として佐渡金山や石見銀山など鉱山開発に携わりました。長安の死後、不正蓄財の疑いから子どもたちは切腹、一族が処罰されています。

【教安寺】

家康公八男(平岩親吉の養子)の仙千代の御廟所があります。
江戸時代、甲府初の芝居小屋がおかれた興行発祥の地でもあります。

【甲斐善光寺】

川中島の戦いで信濃善光寺が戦火に遭うことを心配した武田信玄が、本尊をはじめ諸仏、寺宝類を甲府に移し、創建しました。
武田氏滅亡後、本尊の善光寺如来は織田信長が岐阜へ、本能寺の変によって織田信雄が尾張の甚目寺に移しました。さらに、信雄からもらい受けた家康公が遠江の鴨江寺(浜松市)に移した後、家康公の夢枕に本尊が立ち、再び甲府に帰座したと伝えられています。その後、豊臣秀吉が京都の方広寺に移すことを命じ、甲府から京都に移されましたが、翌年秀吉が病気になり、信濃に遷座したので、甲斐善光寺は、善光寺如来の前立仏を新たに本尊として祀りました。
また、寺宝の一つ「峯薬師」(木造薬師如来立像)は、鳳来寺(愛知県新城市)の本尊で、信玄が三河に出陣した際、甲斐善光寺に移したといわれています。松平広忠と夫人の於大の方が峯薬師に子授けの願掛けをして生まれたのが家康公と伝えられます。

【武田氏館跡】(武田神社)

戦国大名武田氏の居館跡で、館の主郭部だった場所は現在、信玄を祀る神社となっています。信虎が館を築き、勝頼が新府城をつくるまでの62年にわたり、信虎・信玄・勝頼の武田3代の本拠となりました。館の東方の丘陵の名に因んで「躑躅が崎館」と呼ばれました。
信玄の時代に館は拡張され、全国の戦国大名の館の中で最大級の規模になりました。
武田氏滅亡後も、甲斐国を治める拠点として甲府城の建設が進むまで、館の修築・改築が行われ、松木堀のある梅翁曲輪は、家康公の家臣・平岩親吉が築いたといわれています。

【金櫻神社】

金峰山を御神体として、金峰山山頂に本宮があり、金櫻神社は里宮にあたります。神社名の由来である御神木の「金櫻」(鬱金桜)は、淡い黄金色の見事な桜で4月下旬から5月上旬に見ごろを迎えます。
家康公が参詣したといわれ、境内には「腰掛石」が伝えられています。

【御嶽昇仙峡】

長い歳月をかけて浸食された断崖や奇岩・奇石、清らかで豊富な水の流れは、「日本一の渓谷美」といわれ、国の特別名勝に指定されています。渓谷沿いに整備された遊歩道では、仙娥滝や覚円峰、石門、長潭橋などとともに四季折々の変化に富んだ渓谷美を間近に楽しめます。
金峰山や金櫻神社、御嶽古道など「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡」として日本遺産に認定されました。